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    兵庫県宍粟市千種町の豊かな自然に抱かれてのびのび育ったニワトリと有精卵

 
2009.3.24 No.203
生活の中の命(美木子)

 誰もが知っているように、命のやりとりが自然界では行われている。その命のやりとりのおかげで、動物の一員である人間やたくさんの植物の体の一つひとつの細胞ができている。朝ご飯もお昼ご飯も夕ご飯も全部、命と大地の恵みをいただいてできている。つまり、私たち自身も命だが、私たちの体は他の命から形成されているのだ。今私の生活はそんなことを身近に体で感じることができる。
 だが最近、簡単に命を奪ったり、傷つけたりする事件が多い。
 「むかついたから殺した」
 「嫌いだったから殺した」
 「昔いじめ受けた腹いせのために殺した」
たくさんの理由があるが、加害者や被害者の過去に何があったか私は知らない。だから「加害者の親はどんな育て方をしたんだ」と何でもかんでも親のせいにすることも正直ある。また、「世の中が変なのでは」と自分から遠のけて聞かなかったふりをしたいと思うこともよくある。
 けれどよく考えると、人の命や動物の命、植物の命、いろんな命を体で感じられない生活をしているからそんな風になるのではないかと思う。今の人はあまりにも自然から離れた生活をしているような気がする。広大な自然の中で小さいが偉大な自分の命があるということを感じられるような生活をしている人が少ないと思う。
 ならば、自らの手で命を育て、自らの手で命をいただくという、命のつながりを何となく感じられるような暮らしをすることが今一番必要なのではないでしょうか。
 私の家は養鶏業を主な職とし田畑もしている。ニワトリはたくさんのこだわりをもって育てている。だから『こだわりの自然卵、肉』をウリにして売っている。そんな卵や肉には値段がつけられるが、命には値段がつけられない。ニワトリの命をもらい、ニワトリを飼い、ニワトリの子供(卵)を売り、ニワトリを殺して解体し、肉を売るという命に関わる職をしているから命に対するありがたみは、当たり前の生活の中で見落とされがちだが毎日感じている。だがそれはニワトリだけではない。畑では、土を耕し、鶏糞と石灰を肥料として入れ、種をまき、水をやり、日々成長していく作物を見ていると、自然と目を細め優しい心で見ている自分に気がつく。厳しい自然との闘いを乗り切って、強く誇らしげな顔をする作物は、私に優しさと強さをくれる。そしてその誇らしげな野菜の実を切り、その命をいただく。鶏舎では、行ったらすぐに四匹の番犬と一匹の猫が楽しく優しく出迎えてくれる。そしてたくさんのニワトリにエサ、水をやり、卵を集める。次の日のためにエサの材料を混ぜ合わせ、ニワトリの好みそうな良い草を切り混ぜ、すべての仕事が終わり帰るとき、ニワトリや番犬たち、猫に対して「ごめんな、ありがとう」と言う言葉も自然と出てくる。鶏舎での仕事は、私に命の大切さを一番教えてくれる。
 農業で生きていくことは金銭的にも肉体的にもしんどいけれども、お金で買えないモノもあるんだと、高校生でまだまだ未熟な私でも感じることができる。だから、世界中の人が心に余裕をもってゆったりと過ごすことができ、自然界の一員である人間らしく暮らせるように、お金や効率、利益などだけを考えて過ごすような世界ではではなく、人間本来の心を大切にし、ずるいことを考えずにまじめに生きていく世の中になって欲しいと思う。
 そんなささやかな人生が一番尊いのではないでしょうか。
 ちっぽけだしめんどくさいと思う人もいるだろう。だけど私は、自分の今の生活を大切にし、将来、動植物の命を食べるという食を通じてたくさんの人に伝え、自然を敬い自然の中に自分の命があることを自発的に感じ、感謝していくことのできる人を増やしたいと思っている。